「視点」

最近リーガルハイというドラマを観る機会があり、裁判について考えることがありました。

まずは堺雅人がかっこいい。そして長い台詞をペラペラと、迫力のある演技に圧巻。

でも一番思うことは、弁護士はクライエントが「裁判に勝つ」ために、言葉巧みに検察に向かっていきます。裁判に勝つためにあらゆる手段を使います。

そこではクライエントが犯罪を犯したのかは軽視され、罪を逃れたり、軽くする目的に向けて用意した弁論が繰り広げられる。

検察、弁護士の裁量で裁判の結果は大きく変わってくる。

それが仕事で、何も否定できるものではない。

ただ、事実というのは裁判の結果ではないところにある可能性も多いにあるということを感じました。


今日は「サウルの息子」とうい映画を観てきました。

アウシュビッツ収容所での話です。主人公のサウルはある日収容所で、息子の遺体を見つけ、それを埋葬しようと必死になります。

映画は全てサウルの視点で構成されており、サウルの見た事実を辿っていきます。

サウルが息子の遺体を命がけで運び、土葬するために穴を掘る。

でも見兼ねたサウルの仲間が「お前には息子はいない」とサウルを悟します。

その少年の遺体がサウルと血縁関係にあるのかどうか、真実は分かりません。

ただサウルはその少年の遺体を、どうにかして埋葬してあげたいと必死になっていたことは事実だと思います。

収容所で毎日何百人、何千人という人々が殺され、その処理をさせられる仕事をさせられる。もはや感情を押し殺さなければ、おかしくなってしまうであろう環境下だろうと思います。その中で一人の少年を大切に思い(生きていても、死んでいても)、その大切な人のために自分が思う出来ることを最大限に行ったサウル。その事実が痛切に心に刺さりました。


犯罪において、真相がどこにあるのか。当事者にしか分かりません。

サウルに息子がいたのかどうか。分かりません。

血縁があるだけが息子か。国の子供を「息子」とするか。定義によっても違うと思います。

そうなると、息子だろうがなかろうが関係ありません。

大切な人を、大切にしようとした事実。それだけだと思います。


何かを捉える時に、表面に浮き出た事象だけを見るのでは何も本質が見えてこないことを改めて感じました。

私にとって正しいことも、他者にとっては間違いでもある。逆もまたしかり。

私の視点には限界があることを知り、他の視点の可能性を認める。

視点の方向を変えてみたり、広くしてみたり、俯瞰してみたり。

「視点」そのものへの拘りすら、時に解放する。

物事を見るときに、そのような柔軟性をもってみていこうと思う、そんな思いを抱きました。






0コメント

  • 1000 / 1000